土佐愛蘭会原稿

明々 百草頭

 近頃、会う人ごとに「良い花の条件とは?」と尋ねてみるが、多くは「花色、花型、バランス、型崩れが無い事」等というきわめて平均的な答えが返ってくる。別に申し合わせたわけでもないのに、東洋蘭の見方はおしなべて一様である。関係書物などに掲載されている、「東洋蘭の鑑賞方法」等というセオリーを反復的に学習するのだから、それも、やむを得ぬ事かも知れない。しかしながら、東洋蘭趣味者の誰か一人でも「本当にこれが美しいのか?」と疑った事は無かったのだろうかと思う。我々が一様な「東洋蘭の鑑賞方法」に漫然と従って、東洋蘭の美とは何かを検証する事が無いのだとしたら、遠からぬ将来、東洋蘭そのものが存在理由を失うのではないかと、私は危惧している。なぜなら、我々東洋蘭趣味者が、どの様な経過で「東洋蘭を鑑賞するための基準」(以下は「東洋蘭の鑑賞基準」)が成立したのかという由来を明確にしていない上に、一般の花卉植物の鑑賞方法と、「どこが、なぜ」違うのかという理由に付いても、何らの説明も行ってはいないからである。

 しかも、東洋蘭の鑑賞基準は「形式化された、特定の価値観を基準にした場合」のみ有効で、視点を変えれば、たちまち価値は崩壊する。例えば基準を異にする国際蘭展などにおける東洋蘭の位置付けは、決して高いものではない。東洋蘭の鑑賞基準がグローバル・スタンダード(国際的な価値基準と称するもの)からは、よほど距離の有る存在なのである。かと言って(最近そのような方向が有るかに聞くが)、グローバル・スタンダードに迎合するのは、ますます滑稽である。それでは東洋蘭というカテゴリーそのものが存在根拠を失い、最終的には洋蘭の一ジャンルに組込まれてしまう事になるだろう。「東洋蘭の鑑賞基準」などというセオリーによる価値判断は、かくも脆弱であり、我々の価値観を一様にするばかりか、後述するように、結果的に本来の鑑賞眼も暗くしているのである。

 良く良く考えてみれば、元々、東洋蘭には「いつ、どこで、誰が見ても美しい。」という普遍的な美が備わっていないのである。産地はいざ知らず、それが東洋蘭人口の圧倒的に少ない理由である。その花を見て美しいと感じる者は、基本的に少数者でしかない事を心得ておく必要がある。普遍的観点から見た東洋蘭とは、「温帯モンスーン地域に自生し、小型で目立たない花を付けるシンビジューム属の野生蘭」というのが本来の姿で、花卉植物として品種改良された園芸種とは同列にはならない。それを「野生種の希少価値」などと言い逃れても、普遍性を獲得できるわけではないのである。

 また、東洋蘭関係の著作物を見ると、何らかの形で仏教や儒教という東洋思想に言及しているものが少なくない。「伝統」といえばそれまでであるが、普遍的な美を持たないがゆえに、東洋蘭の付加価値を高めるためには、それに言及せざるを得なかったのであろう。心情としては理解できなくもない。確かに、東洋蘭に向き合った時の独特な雰囲気は、他の花では味わえない。何やら摩訶不思議な効能が有っても良さそうなものである。しかし、東洋思想に対するこの様なアプローチはある意味では危険である。
 例えば、禅に「無字の公案」というものがある。「趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや、也た無きや。州伝く、無。」というものであるが、問いの本意は「犬には仏性が有るのか無いのか」ではなく、その答えの「無」とはどういう意味かにある。「無」の意味を説明すれば「無」ではなく「有」になる。「無」という事で何も言わなかったら、答えられなかった事になる。そこで絶対矛盾に陥る。さぁ、どうする?。儒教思想はたわいないが、仏教思想は諸刃の剣である。ヘタに流用すると、自身の論理矛盾を露呈する事になる。「危険物に付き取扱注意」なのである。

 さて、表題に掲げた「明々、百草頭」であるが。これもまた、臨済宗に伝わる禅語の一つである。水墨によって東洋蘭を顕わし、それに賛として添えられる。概ねその意味は「諸々の草木の上に明らかである。」という事になる。お気付きかと思うが、この言葉には主語が無い。あえて省略したのである。「何か」が「諸々の草木の上に明らか」なのである。なぜ主語が省略されたのかは追々説明する事として、省略された言葉は「仏」とか「真実」とか「自然」とか様々に理解できるし、どれもが当を得ているようでもあり、また違っているようでもある。その意味では「明らかである」などと言いながら、何も明らかにしていない。ここでも禅語は意味不明である。言語による理解や理性による識別を退けて、体験による知覚(悟性)を重んじるからである。この様な理由から、元来言葉で説明してはならないのだが、解説しなければ話が前に進まない。そこで、無理を承知で話を進めたいと思う。

 物事を理解するという事は「分かる」という事である。「分かる」というのは分別する事である。「分別が付く」という事は、是と非を分かつ事である。類似する事柄の中から差異を見つけて、区別する事である。よって、物事を理解するためには「是非を分かつ」必要がある。では、何によって是非を分かつのか。我々は、それまでに貯えられた知識や経験を基準とする以外に方法を持たない。こうして、幼少時より幾度となく「是非を分かつ」という行為が繰り返された結果、類似した条件を集約し整理するという方法が発生し、個々人の内に認識のパターン化が成立する。やがてそれは、評価の中心として価値基準を形成する。我々が事物を判断する場合、この価値基準に照らして是と非を区別しているのである。

 ところが、この価値基準が我々の鑑賞眼を暗くしているのである。これによって、我々は事物を素直に見る事が出来なくなっているのだ。例えば、レモンや梅干しを見ているだけで自然に唾が出てくるのは、我々の側に先入観があるせいで、レモンや梅干しにその様な作用があるわけではない。同じ理由で、我々に「東洋蘭の鑑賞基準」という先入観がある限り、花を見ても花が見えないのである。
また、価値基準は評価を行うために、常に対立する概念を用意する。「無」といえば「有」、「犬」に対して「猫」、「是」と「非」といった具合である。物事を判断する上で、これが必要なのは当然であるが、これらの概念と眼前の事実は別事である。例えば、「レモン(と言うもの)はミカン(と言うもの)よりすっぱい」という事と、実際に口に入れて「すっぱい!」と感じる事は全く別物である。同じ様に、東洋蘭をその鑑賞基準に照らして是非を決める事と、ある花を見て感動する事は全く別物である。言葉は表現や思考の道具ではあるが、事実それ自体に付いては何も語らないのである。

 さて、もう一度主題に戻ろう。「明々、百草頭」…。言葉に頼っては言葉の意味が読めない。言葉を離れて、状況とそれぞれの関係に思い至らなければそれは見えない。例えば、目の前に寒蘭の花が咲いているとする。その花を私が見ているとする。私がいかに花を凝視しても、私には「東洋蘭の鑑賞基準」などという意識に刷込まれたゴミしか見えず、花そのものの実体は見えない。また、私と花との間には相対的な対立区分が存在している。そこで、花に感情移入をしたとする。花になった私の前には、花になった私を凝視している私が見える。確かに世界は反転するが、鏡の中から私を見ているだけで対立するという関係性は変わらない。視点を再び私に戻す事にする。しかし、今度は花を見るのではなく、花を見ている私を見る事にする。すると、「もし私がここに居なかったら、たとえ花が有っても私にとっては無いのと同じである。」と気付く。同時に、「もし世界が無かったら、私がここに居ても私はここに居る事さえ解らない。」という事にも気付く。そこで、もう一度花を見る事にする。すると花が外にではなく内に見える。そして「世界と私自身は、元来不可分で同一のものだ。」と気が付く。これが「明々、百草頭」の主語である。


 少し言葉足らずかも知れない。説明すると、客体としての「世界」が自律的に存在したとしても、認識の主体である「私」がそれを認識する事が無かったら、私にとって世界は存在しない事になる。一方、認識主体としての「私」は、認識対象である「世界」によって、初めて自己を認識する事が可能となる。「私」は「世界」を認識する事によって世界の主体であり、その主体が自律的存在として成立するのは、世界に因んでいるという事になる。共に自律し、相互に対立する自己と世界は、本来それぞれが全体の不可欠な一側面であるという自覚によって、対立したままで同一化が可能となるのである。

 では、なぜ主語が省略されたのだろうか。仮に「世界と私自身は、元来不可分で同一のものだという事が、百草の上に明らかである。」と書いたところで、多くの場合「世界」と「私」という対立する概念は「同一化」される事なく、対立のまま概念化され、その意味は問われないまま放置される。文字に書かれたものは、それが読まれた瞬間にその意味が変質するのである。今、これを読んでいる貴方の理解が、私がこれを書いた時と同じとは限らないのだ。重要なのはその言葉か吐かれた瞬間の境涯であって、書きとめられた文字ではない。したがって、文字を読んだ人が、その言葉か吐かれた瞬間の境涯に接した時に初めて理解できる様に、意図的に主語が隠されたのである。

 また、ここでいう主語は、それを特定する事自体が不可能である。先の「無字の公案」において、「無とはどういう意味かが問われている」と書いたが、詳しく述べるなら、問われているのは無でも有でもなく、「それらの対立概念を超えた処」なのである。「無」と「有」は互いに対立する概念であり、何かが「無い」場合、同時にそれが「有る」という事は、通常あり得ない。それを「無でありながら有でもある」などと言ってみても意味を成さず、「対立概念を超えた処」を直接言語化することは事実上不可能である。同時に、「対立概念を超えた処」は相互に対立する一切の概念をその内に含んでいるので、何と呼んでも良いのである。要するに、無と呼んでも有と呼んでも、何と呼んでも当たらないが、全ての概念を含んでいるので、何と呼んでも良い事になる。

 仮にそれを実体と呼ぶなら、(もちろんそれを無と呼ぶのも、犬と呼ぶのも自由ではあるが、)実体は我々の「理性」や「言葉」によって把握されるものではない。なぜなら、「識別」なり「弁別」という行為が、特定の立場を持つ有限なものとして我々を規定するからである。換言するなら、対立する概念を分別する事によって理性が成立っている限り、理性の下す判断は常に偏っており、どちらか一方の立場に我々を拘束するのである。理性が対立する概念を総体として掌握する事はあり得ないのである。

 ここまでくると、どのように言い繕っても「東洋蘭の鑑賞基準」という価値観は、意識に刷込まれたゴミであることが明白である。もし我々が、「東洋蘭と洋蘭は別のカテゴリーである。」と言うのであれば、「東洋蘭の鑑賞基準」などというセオリーを頼りとせず、心の目を開いて花を見るしかない。(素心という言葉の本来の意味は、他でもないこの様な心の状態を指すのではないかと思う。)花型も花色も大きさもバランスも、すべては表層に過ぎない。我々が東洋蘭に感動し、それを志した理由は、そんな表面的な事だけでは無かった筈である。
さりとて「展示会等の審査においては、客観的に判断すべきである。」という意見も解らなくはない。しかし、何を持って客観と呼ぶのであろうか。「審査規定」という、根拠の薄弱な評価基準を指すのであろうか。それとも多数の賛同という、公正である事を担保するための、妥協の産物を指すのであろうか。そもそも客観というものは、観察者の視点によって様々に変化し、確定的ではない。また、日常的平面に客観は無いのである。そこにあるのは、せいぜい「審査員の客観もどきの主観」であり、「その集合としての多数決」である。見方を変えるなら、問われているのは東洋蘭の花ではなく、その時点での審査員の見識という事になる。それでもなお、「農産物の品評会」のごとき展示会審査を、我々は続けねばならないのだろうか。

 もちろん、禅宗だけが独り東洋思想を代表しているわけではない。仏教だけでも数多の宗派があり、それ以外にも多くの東洋思想が存在する。しかし、東洋思想の底を流れるものは、驚くほど似通っている。というより、通低しているという方がふさわしいのではないかとさえ思われる。先年、中国より来られた気孔術の術者とお目に掛かったおり「大極」に話題が及んだが、ここでも東洋思想に付いての見解は一致した。すなわち、西洋的な考え方の本質が「弁別」であるなら、東洋においては「混沌の知覚」がそれであろう。言葉が弁別を始める以前には混沌があり、混沌でありながら晴れていたのである。

 この小論を書くに当たり、あちらこちらと散読していると、禅関係の書に「(見性の結果)仏性平等(を得た)だけではまだ一方しか見えていない、因果差別の世界も徹見されねばならぬ…」という記述があった、なるほど、もっともである。しかし、その見性(悟り)が「対立する概念を超えた処」に達していたら、仏性平等も因果差別も既に個別的ではない。そこは全てを含む一である。対立概念の双方を含むが、そのどちらにも依存しない。したがって、どちらにも固執しない。どちらかに偏ってもそれに執着しない。「執着しない事」にも執着しない。元々、どの様な分別にも意味など無かったからである。そうやって、ついには何者にも拘束されない、完全な自由を手に入れる。これが、東洋的主体の確立という事である。

 ここに述べた事は東洋蘭の鑑賞という範疇から大きく逸脱しているかも知れない。いや、その事は重々承知で、「西洋的な普遍性を獲得できず、かと言って東洋を突き詰めるでもなく。花を物的対象としか捉えず。流行に左右されながらもそれを流行とは認めず。伝統古典と言いながら、その出典も論拠も定かではない東洋蘭の現状」を打開するすべとして書いたつもりである。「たとえそれが事実だとしても、ここには各論が無い。」とおっしゃる方もあろうかと思う。しかしながら、各論は要らないのである。もし、「花色は、花型は…」と言い始めたら、再び絶対矛盾に陥る事となる。「東洋蘭を見る」という事は、「花を客観的に捉えて、高みから批評する」事ではなく、「今ここで、自己の有様を知る。」という事なのである。一切の拘りを持たずに、花を眺めるのが、本来の姿ではなかったかと思う。東洋の文化的伝統が示唆するものがこの様なものであるなら、花を見るという平易な行為でさえ、その刹那に明々たる覚悟が求められるのである。